伊藤証信常設展示

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更新日:2022年03月30日

哲学たいけん村無我苑は、伊藤証信翁の開いた無我苑の跡地に建っています。地域の歴史を後世に伝えるべきと考え、伊藤証信翁を紹介する常設展示を設置しています。展示は、故・梅原猛名誉村長常設展示に併設されています。

「伊藤証信の神秘体験」 『NOTA No.8』より

伊藤証信が1904年8月27日夜に特殊な体験を得たことは、彼自身が雑誌「無我の愛」や「愛聖」などで証言している。じきに満29歳に達しようとするその時期、彼は父親の看病のため、郷里に帰省中であった。帰省の際に持参した書物は、トルストイの『わが懺悔』と『わが宗教』のみだったという。彼がそれまで吸収してきた真宗系の教養に加えて、清澤満之の精神主義やトルストイの思想の影響が、この体験の背後にある。

その夜、病父と同じ蚊帳のなかに伏せりながら、以前から悩んでいた自分にとっての人生の意味、「我を如何にせん」という問題を考えているうちに、「一条の光明が私の胸にみなぎり、永い間まっ暗な懐疑と煩悶に閉ざされていた魂が、からりと大きく開けた」と彼は書くのである。「私の一生は、この時を境に、画然と前後に分断されることとなったのです」。「名と不名と、功と不功とは、我が責任ではなくて、全く他の支配にあり、我は、ただ、できる限り天職を勤めて、目前の自然人類を愛するのみ、ということに到達するや、全身忽ち電気に打たれたように、ぐったりとなって戦慄をおぼえ、甘い涙が泉のように湧いてきました」。このように「一種の突発的感激といったような現象」を描く彼の筆には、すでにその現象についての彼自身の解釈が入っているが、この現象に関して彼がしばしば用いる「光明」という表現からも、それを一種の神秘体験と推測してよさそうである。

ただ、その体験そのものは一時の異常な現象であって、問題は実は体験者がそれをどのように意味付けるかにかかっている。伊藤証信の場合は、彼が以前から抱えていた人生の意味にかかわる問題との関連、そして以後の仕事のなかでその体験を振り返りながら、また、あらためてそこから出直しながら、考えつづけていく問題との関連にあろう。その関連のなかで、この体験は、証信にとって「無我愛」の意識として大きな意味を持った。

たしかに意識の問題としては、西田幾多郎やカントその他の哲学者に問いかけながら、「無我愛」の理論付けを企てた彼の哲学研究の意図は理解できる。だが、おそらくこの体験の彼自身の存在にとっての重みゆえに、彼は、理論家であるよりは実践者であったし、哲学者であるよりは精神運動家であった。そういう人間が1934年に開いた「無我苑」の地に、いま碧南市哲学たいけん村無我苑が位置している。

国際日本文化研究センター名誉教授・碧南市哲学たいけん村無我苑顧問 久野 昭

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