郷土に生きた哲学思想家 伊藤証信(いとうしょうしん)

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更新日:2019年07月10日

伊藤証信
建設当時の無我苑

伊藤証信は、明治から昭和にかけて「無我愛」を提唱し、仏教に限らずキリスト教、西洋哲学など幅広い研究と思索を続けた哲学者です。関東大震災後、西端の青年で結成された「 竜灯団 (りゅうとうだん)」に招かれ東京から西端に移り住み、地元青年にカントの『純粋理性批判』を翻訳して教授したり、ドイツ語などを教えたりして、精神主義に基づく思想的影響を与えました。当地西端で書かれた『哲学入門』や『無我愛の哲学』は、証信の著作物の中でも特に高い評価を受けました。
あさ子夫人は、証信の活動を支えるとともに平塚らいてう、与謝野晶子、市川房枝らと女性の地位向上運動にも参加しました。現在の「哲学たいけん村無我苑」は伊藤証信が昭和9年に開いた研修道場「無我苑」があった場所で、遺族からの寄贈を受けて市が再建したものです。

誕生から『無我の愛』に至るまで

伊藤証信は明治9年、三重県 員弁 (いなべ)郡久米村坂井(現在の桑名市坂井)の農家に生まれる。
幼名清九郎。熱心な真宗門徒であった両親の影響を受け、13歳で自ら出家し、真宗大谷派円授寺で得度。名を証信と改める。
大垣の美濃教校、京都の真宗中学校から真宗大学(現大谷大学)に進み、清沢満之(宗教哲学者。明治21年碧南市の西方寺に入る。)に学ぶ。大学の移転に伴い上京する。
明治37年、父親の看病のため久米村に帰ったが、その枕辺で突然霊感に打たれ、「無我の愛」を悟る。

第1次「無我苑」の発足と中止

明治38年、証信はこの霊感体験を基に東京巣鴨村大日堂に無我苑を開き、修養運動を始めると同時に、機関紙『無我の愛』を創刊した。同年10月、無我愛運動を進めるために僧籍を返上し真宗大学を退学。
この決断は、大きな反響を呼び、 徳冨蘆花 (とくとみろか)、幸徳秋水、堺利彦、 綱島梁川 (つなしまりょうせん)などが賛辞を寄せた。同年12月には、 河上肇 (かわかみはじめ)が学習院の教職を辞して、無我苑に入苑した。
しかし、翌年3月証信は「修行未熟」を理由に突然無我苑を閉鎖。無我苑の急速な発展が教団化の道を辿ることを恐れたといわれる。

結婚と運動の模索

閉苑後招かれて、山口県の徳山女学校に赴任。その地で竹内あさ子と知り合い、明治42年に結婚。あさ子は証信の運動を支えるとともに、平塚らいてふ、市川房枝、与謝野晶子らと女性の地位向上運動に貢献した。
証信は明治43年にあさ子とともに上京し、雑誌『我生活』を発刊し、翌年論文「大逆事件の掲示」で5日間入獄。
大正5年には「中外日報」主筆に招かれ、京都に移るが、8月には再び東京に戻り、機関紙『精神運動』を発刊。この間各地を転々としつつ、既成宗教、新興宗教とは一線を画した精神運動、思想活動を追い求める。

無我苑の再開、そして西三河の西端へ

大正10年東京中野に「無我苑」を再開。11月には著書『無我愛の真理』、12月には『対話精神生活』を発行した。関東大震災後、西三河の農村青年で結成された竜灯団に招かれて、西端(現在の碧南市)に移り住むことにととなり、仮寓を「竜灯窟」と名付けた。この地で無我愛の思想を学問的に体系づけようとし、仏教に限らずキリスト教、西洋哲学など幅広い読書、研究、思索を続けるとともに、地元農村青年にカントの『純粋理性批判』を翻訳し教授したり、精神主義に基づく思想的影響を与える。この間に著書『哲学入門』『無我愛の哲学』を発行。証信の著作物の中でもとくに高い評価を受ける。
昭和9年西端に全国からの浄財の寄贈により、木造2階建の「無我苑」が竣工し、居室と集会もできる研修道場となる。
戦中、満州に渡り無我愛を伝導し、戦争協力、天皇制賛美の言動が災いし、戦後批判を受ける。晩年は「世界連邦建設」を目指して活躍。
昭和38年証信満87歳で死亡。死後平塚らいてふは「柔軟な魂の自由宗教者伊藤証信先生とあさ子夫人を永遠に記念する」と墨書した書を贈り、その死を悼んだ。

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碧南市役所 教育部 哲学たいけん村無我苑
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